ボリバルブログ ~世界史教育の試行錯誤~

某公立高校の世界史教員が世界史教育について述べるブログ

「(生徒が)問いを表現する」授業再考

【この記事の要点】

・18年度からの「問いを表現する授業」を振り返りながら、

・そもそも「なぜ問いを表現させるのか」を確認し、

・先行実践や私の実践(20年度)では「と私たち」の問いが表現されていないことを指摘する。

・私が21年度に試みたように、「と私たち」の問い=「真正な問い」をどう表現させていくかを考える機会としたい。

 

島村圭一, 永松靖典『問いでつくる歴史総合・日本史探究・世界史探究 ―歴史的思考力を鍛える授業実践』(東京法令,2021)が出版された。ここには「問いを表現する」授業がいくつか掲載されており、よりいっそうの議論の活性化が見込まれる。この実践本を踏まえつつ「問いを表現する」授業を再考したい。

 

www.amazon.co.jp

 

 

1.「質問づくり」との出会い

新学習指導要領が公示されると、私が属する研究会では激震が走った。

「問いは教師が教材研究をして、練りに練って作り出してきたものだ。それを生徒が作れるはずがない!」

とはいえ、それでも問いを表現させなければならない。そこで、「型」に頼ればいいと私や他のメンバーが着目したのが、ダン・ロスステインら『たった一つを変えるだけ』の「質問作り」の手法であった。詳しくは以下のブログ参照。

 

ただし、「質問づくり」は、「生徒に民主主義的な思考と行動を可能にする習慣を身につけ」るために生み出された手法だということを忘れてはいけない。

 

こういう前提があるにもかかわらず、それでも「無理難題」と考えられた「(生徒が)問いを表現する」授業をなんとか形あるものにするために、私は「質問づくり」に飛びついたのである。

 

2.18年度と19年度の実践で「歴史総合」の形式を表面的に実現

▼18年度 単発で「問いを表現する」授業を実施:「歴史的な見方・考え方」を働かせる授業として実践

この時の問題意識は、①とにかく無理難題な「問いを表現する」授業を実現することと、②問いを表現するという学習の過程で生徒が「歴史的な見方・考え方」を働かせられるようにすること、の2点であった。

指導要領に合わせて「質問づくり」を改変しており、質問の焦点に加え、史資料を提示することで、時期や推移とか多面的・多角的とか「見方・考え方」が表現された問いに表れると考えたのである。

実際、判定は甘々だが、それっぽい問いが表現され、特に「開いた問い」から「閉じた問い」に転換されるとき、仮説をつくる生徒が現れ、その仮説をつくる中で時期や推移に着目したり、因果に着目したりしていたのだ。なお、思った以上に問いをつくり学習自体がハードルの低いものであることを実感する。この成果と課題については、「オンライン歴史総合・探究研究会」で報告することができた。

 

▼19年度 単元の導入で実施:生徒の興味や関心を引き出し、それを出発点にした単元学習の導入として実践

19年度は、問いを表現する学習から始まる単元を構成した。堀哲夫の「OPPシート」もどきの「単元学習シート」を開発し、その上部に生徒が表現した問い(❶単元を学ぶ上で重要だと思う問い、❷現代を生きる私たちにとって重要だと思う問い)を記述させ、その1枚のワークシートに、各授業のメイン課題の考察を記述させ、単元終了時に、❶と❷の問いを踏まえて大衆化を概念化させるという実践を行った。これで形式的はかなり歴史総合に近づくことができた。

単元学習シートに関しては、株式会社ラーンズのWeb記事が参考になる。(20年度の授業実践)。

www.learn-s.co.jp

 

3.そもそもなぜ「問いを表現する」学習を行うのか

この頃から、生徒は意外と問いを表現できること、一方で「歴史的な見方・考え方」とは何かよく分からず、それを育む実践は現状かなり厳しいと判断したことから、「問いを表現する」授業への関心も変わってくる。ここでそもそも論に戻ったのである。

 

学習指導要領には以下の通り示されている。

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「興味・関心をもったこと、疑問に思ったこと、追究したいことなどを見いだす学習活動」であるのだから、そこで表現された問いは”生徒の興味・関心の表れ”と理解することができ、その「問いを踏まえ、主題を設定し、資料を活用して課題を考察する」授業が、その次の展開にやってくるのである。

すなわち、学習指導要領に示されている問いを表現する学習は、以下のような先行事例とは異なる。

 

  • 宮本英征のように、同一授業内で教師が発問しながら問いを洗練させることによって質の高い問いを表現していく学習*1
  • 永松靖典のように、「その問いがどのような見方・考え方を働かせる問いとして機能するか、そして、その問いを追究することによって、どのような歴史的思考力を育成し、鍛えていくかということを意識した問い」(島村,永松,2021,p.28)、すなわち、かつては教師が投げていた発問を「つくらせたり」する学習
  • 加藤公明のように、一つの画像資料から気になることを挙げていく「変だな探し」(高大研2020の野々山報告も「変だな探し」の一つだと思う)

「問いを表現する授業」は、あくまでも生徒の興味・関心を見取り、単元の見通しを持たせる学習なのではないだろうか。そして、上記の実践は、「と私たち」の視点に欠けているように感じる。そして、興味・関心を見取ったうえで、その関心を満たすことができるような資料を少しずつ取り入れたり、問いを変えたりすること(=指導と評価の一体化)こそが大事なのである。「どんな問いを表現できたか」を総括的評価の対象にはしないのである。

 

▼20年度 単元導入として実施し、診断的評価を行った:生徒の興味・関心を見取り、各授業の主題学習に反映して実践

さて、私の実践はどうであろうか。これについては拙稿(2021)をご覧頂きたいのだが、工夫した点は以下のとおりである。

 

  • 複数の資料を示して「質問の焦点」を設定したことで、生徒の多様な興味・関心に応えられるようにした
  • 「現代を生きる私たちにとって大切な問いをつくってみよう」という学習活動をいれることで、「と私たち」に関わる問いを表現させようとした
  • 表現された問いを「生徒の興味・関心」と捉え、それに応じて次時以降の問いや資料を柔軟に変えた。(これは高大連携歴史教育研究会(2020)の野々山報告に大いに刺激を受けているし、この点は私なんかよりはるかに凄い)。

 

4.しかし、「と私たち」と結びつけることはなかなかできない

拙稿(2021)にも課題として挙げたように、現代的諸課題をまなざす生徒の問題意識が問いとして表現されない。問いではなく、振り返りの項目で「BLM」とか「香港」とかのワードが出てくるが、それが本当に生徒の問題意識かどうかも分からないし、その単元を通じてそれを探究する学びに発展する様子も見られない。資料は読んだけれども、生徒にとっては「私たちの歴史」ではないことが浮かび上がったのだ。

このような現状認識を把握できるようになったのも、渡部竜也『Doing History』で「実用主義」の観点を学んだところが大きい。そして、豊嶌 啓司 , 柴田 康弘の論文や、*2まだ読めていないがニューマン『真正な学び』に関連する議論を見聞きする中で、「と私たち」の問い、すなわち「真正な問い」を表現する学習にしたいと感じた。

ところで、2021年7月28日(水)、全国歴史教育研究会の世界史探究の分科会で「問いを表現する」が紹介されたときも、フロアの野々山氏は「市民社会を生きる「私たち」の視点からの問いを引き出すことができていない」という趣旨のコメントを残している。やはり、実施初年度に向けては「と私たち」の部分が何よりも重要になるだろう。

 

▼21年度 現代の市民社会を生きる「私たち」の切実な問題意識をブレストした:「私たち」の課題を出発点にしてから問いを表現させた

なお、この頃ちょうど歴史総合の教科書見本が配布され、そこからヒントを得ることができた。東京書籍の大項目C中項目(4)の観点による学習のところで以下のような記述がある。

①1~4はいずれも日本とその支配地域の『統合』の様子を示している。どのような立場の人々からみた『統合』なのだろうか。また、この『統合』において大衆の意思はどのように反映されていたのだろうか。

②この時期の日本とその支配地域の人々は、どのような点で『統合』されずに『分化』していたといえるのだろうか。

③大衆の立場から見ると、現在の東アジアや東南アジアの人々は、どのような面で『統合』し、どのような面で『分化』しているといえるだろうか

この問いを見て、直感的にこれを導入にしてみたらどうだろうかと考えた。すかさずTwitterで意見を募る。

 

 

で、 その結果、こんな感じのワークシートになった。

 

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この学習活動で、現代的諸課題をブレストしたうえで生徒に問いを表現させた。すると、結構いい問いが出てくる。20年度までの問いに比べて、明らかに具体的で切実性があるように見えた。たとえばこんな感じ。

・なぜ民族による差別が生まれ、今でも続いているのか
・なぜ民族により学力の差が生まれ、差別が行われているのか
・出身や家柄関係なく、人は生まれながらにして貧富の差はないのか/平等なのか
・生まれながらに平等なはずなのに、社会的地位に差異ができるのはなぜか
・学ばない人だけでなく学べない人もいるのに、学力や知識で地位を決めようとするのか
・なぜ人間は平等を忌避し、比べ合うことにためらいを持たないのだろうか
・社会的地位の差や差別はどうしてできるのか、縮めることはできるのか
・出生がその後の格差に影響してしまうようになったのはなぜか

20年度までの実践では、資料に縛られた問いが多かった。極端な例だと、「(アメリカ合衆国憲法の条文について)各州の人口にその他すべての人々の人数の5分の3だけをなぜ加えるのか」といった、資料の意味を純粋に知ろうとする問いが多く目立った。しかし、21年度の実践は、最初のブレストが効いて、自分に関係が一応ある問いが目立ったのである。これには手応えを感じた。

 

以上、問いを表現する授業に対する私の授業実践の現状である。しかし、今度は現代的諸課題に対する生徒の現状認識が乏しいということが浮かび上がり、歴史の授業でどこまで扱うべきか迷うことになるのである。それについては余力がある時に別記事で。

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*1:宮本英征「近代化への問い ――問いの探究学習」(原田智仁編著『「歴史総合」の授業を創る』明治図書,2019、宮本英征「ICT活用 主体的・対話的だけではなく深い学びを保障する手段としての活用」(社会科教育57巻(11),明治図書,2020)

*2:豊嶌 啓司 , 柴田 康弘「社会科パフォーマンス課題における真正性の類型化と段階性の実践的検証」2018