ボリバルブログ ~世界史教育の試行錯誤~

某公立高校の世界史教員が世界史教育について述べるブログ

「(生徒が)問いを表現する授業」のフォーマット

1.質問づくり・フォーマット

以前のブログ記事で「(生徒が)問いを表現する授業」についての一考察を述べた。

worldhistorysimonbolivar.hatenablog.com

「近代化と私たち」の授業では、「質問づくり」(ダン・ロスステインほか)の手法を用いた2時間もののフォーマットで授業を行った。この実践では「と私たち」の視点を入れるために、導入で「現代的な諸課題を考察するための観点を用いて、ある人にとっては『平等』だが、ある人にとっては『格差』を感じることを挙げよう」というブレストを行うことで、生徒一人一人の関心や実態に即した真正の学びの実現を試みた。

 

2.ジグソー・フォーマット

ただ2時間も必要とするため「国際秩序の変化や大衆化と私たち」では1時間で行いたいと考え、別のフォーマットで問いを表現させようと考えた。それが山川&二宮ICTライブラリに掲載されている「問いの表現」である。

 

ywl.jp

 

このフォーマットは、前川修一ほか『歴史教育「再」入門』(清水書院,2019)の美那川先生の論稿で紹介されていた「生徒は矛盾を感じた時に問いを創作する」という問いの表現に至る条件を整えたものであり、かつ知識構成ジグソー法が概念的な理解を習得するのに適した手法であるという第一前提のもと、ジグソー活動で「〇〇化」をまずは理解しその理解に基づくと矛盾を感じるような資料を提示することでそこから疑問や問いを誘発する、という展開になっている。

似た授業案に本間先生の授業案があるが、こちらはジグソー活動で問いを表現することになっており、概念的な理解の習得ができるというジグソー活動の強みが生かされにくいデザインだと感じた。

 

www.teikokushoin.co.jp

 

3.授業づくり

さて授業づくり。コンテンツ面は山川&二宮ICTライブラリの教材に頼りつつ、Twitterで実践報告をされている焼き茄子先生の教材も参考にした。氏の教材は偏差値50の生徒向けであり、生徒にとって学びやすい資料として図像資料を提示していることに気付く。導入の授業で図像資料を扱うのはイメージを持たせるためにも効果的だ!と合点した。

教材と展開は以下のようになる。

◆導入5分

◆エキスパート活動5分

 エキスパート資料A:総力戦を示す図像資料
 エキスパート資料B:大衆の政治参加を示す資料
 エキスパート資料C:生活様式の変化を示す資料

◆ジグソー活動10分

 そこから得られる解答の要素:総力戦や産業構造の変化により国民が平準化した

◆クロストーク5分(4班程度)

◆記述5分

 大衆化はどのような変化のことか

◆矛盾する資料の提示と問いの表現10分

 ①関東大震災の新聞(朝鮮人の虐殺)、②市川房江の発言(日中戦争時)

◆記述10分

 単元を学ぶ上で疑問に思ったことを問いとして表現しよう

 その問いを選んだ理由は何か

 想定される問い(※実践後、実際に出てきた)

 :大衆とは誰のことなのか?(朝鮮人、女性は排除されている?)

  なぜ日本では女性の参政権が遅かったのか?

  なぜ朝鮮人が暴動をしているという流言(デマ)が広まったのか?

 抽出を想定している固定観念(素朴概念)

 :朝鮮人には暴行を受けるだけの非があるのではないか?(加害者側の論理)

  なぜそこまで女性参政権が必要なのか?(女性差別の軽視)

 

4.実践報告

◆指導と評価の一体化の一例 ~評価の窓を多様に開けていたからこそ~
生徒Aは、大衆化とはどのような変化のことか、と問われて以下のように記した。
「大衆である民衆・国民が集まって運動、行動を起こし、生活や国民の考え方に変化が起きることだ。生活や国民の考え方に起こった変化は、資料から読み取ると、情報の伝達が発達したり、衣服などに気を向けることができたり、工業化が進んだという変化が読み取れる。」

注目すべきは、事象と事象を並列に記述していること。工業化が進んだことが背景となって生活様式が変化した、と書くことができない。情報の伝達が発達することでどうなったのかについての言及がない。

ところがこの生徒は、クロストークにおいては「このような大衆化が進んだ背景は、工業化が進み産業構造が変化したことが挙げられる」などと説明していた。ここから言えることは「記述された成果物が必ずしも生徒の認知を反映するとは限らない」ということである。ALの視点で授業を行い生徒の認知を多様に観察する方法を用意するべきだ、とはCoREFがいつも言っていることである。発話と記述の表出のされ方に差異があったのだから、次に行うべき指導は「どのように書けばよいか」ということになる。「事象を相互に関連付けられず並列でしか理解できない」と判断するのは早計なのだ。
 
ちなみに、おおよその生徒が「大衆化」のイメージをざっくりと理解できており(導入としては十分すぎる!)、かつ表現された問いも想定していたものが出てきたので、授業はある程度ねらい通りの成果を得たということができる。

 

5.2つのフォーマットの比較

近代化と大衆化とで別のフォーマットで授業を行ったので、その比較から見えてきた雑感を述べる。

 

①質問づくりは、問いをたくさんつくる過程で複数の資料を隅々まで読み、理解深化が促されるという副次的な効果が見られた。一方、ジグソーは1つ1つの資料の理解は十分でなく無視されるものも少なくはない。

②「〇〇化」とはどのような変化なのかを聞いたところ、2時間の質問づくりと、1時間のジグソーとでは、大きな差はないように感じた。知識構成型ジグソー法の強みが発揮した結果かもしれない。いずれにせよ導入としては十分。

③「大衆化とはどのような変化なのか」を一度概念化させたこともあって、「大衆とは誰なのか」という疑問を持ったうえで矛盾する資料を読む生徒の発話を確認した。

④ジグソーは矛盾する資料のみから問いをつくることになるので、より限定的な問いが表現された(ある意味ねらい通りの問いに収斂されたといえる)。また資料に縛られることが多かったため、「大衆とは何か」といった芯を食う問いが出にくかった(朝鮮人の差別を踏まえ「大衆と何か」と大衆の範囲を疑問視する生徒も現れた)。

⑤質問づくりは「民主主義の担い手の育成」や「「が理念としてあり、ジグソー・フォーマットで問いを表現する場面はその理念が反映されないといえる。

⑥ただし、4つのルールを設けないことで、対話的な学びによる資料の読み取りと理解の深まりを見取ることができた。たとえば、関東大震災のデマは大衆社会で情報が大衆に行き届く社会になっていたことが背景である、と考察する生徒もいた。これは、質問づくりのルール「話さない」では実現しない学びの姿である。

⑦ジグソー・フォーマットは時間がキツキツである。生徒の学力や慣れに大きく左右されるのではないかと思った。政治、経済などの側面の整理とか、女性という共通項に着目するとか、現代とのアナロジーで考えるとか、想像以上に良く学んでいて感心したのだが、この学びは1学期では難しかったのではと思う。

 

現時点での結論

・質問づくりは、「発言が尊重される感覚の醸成」が理念となっており、資料をじっくり読む学習につながるので、授業計画「近代化と私たち」には向いている。現代的諸課題を考察させる余裕もある。

・ジグソーは、知識構成型ジグソー法や「近代化と私たち」の授業に慣れていたからこそ短時間で成果を出せた可能性がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二井正浩『レリバンスの視点からの歴史教育改革論』とレリバンス(関連性・意義)について

【レリバンスについて】
二井正浩『レリバンスの視点からの歴史教育改革論』を第1部まで読んでみたが、とても勉強になる。
レリバンスとは関連性・意義のことであり、社会科教育ではしばしば「自分事」として使用される。
原田智仁によれば「歴史教育歴史学研究の成果に依拠するところが多く『何を(内容)』『どのように(方法)』が中心的に論じられてきた一方、『何のために』という目標が自明視され、深められてこなかった」(p.9)のであり、しばしば渡部竜也が指摘するように、歴史嫌いを生み出してきた。
渡部竜也は『Doing History』(2019)で以下のように、教師がこれまで取り続けてきた(と渡部が考える)実証主義を批判し、生徒が学ぶ意義を実感できる実用主義を提案している。
今の学校の歴史教育に対して人々が不満を持つ最大の原因は、自分は歴史学者になるわけでもないのにどうして歴史学者にならなければならないのか、という根源的な問いに対して、歴史を教授する側の人間たち(歴史学者と高校教師)の論理ばかりが先行し、学ぶ側のニーズが置いてきぼりになり、一般の人々にとって納得のできる解答がこれまで十分に示されてこなかったことにあると考える。(渡部,2019,p.65)

では、実用主義の考えを取り入れれば、生徒は学ぶ意義を本当に実感するのだろうか。本書第2章の宮本英征の論稿*1は、ある高校の授業においては「多くの生徒は、歴史的事象そのものを学ぶことではなく、現代社会や生徒自身に結び付けて学ぶ…ことに意味や意義、動機といったレリバンスを構築したこと」を明らかにした(p.50)。これは渡部の主張を裏付ける結果と言える。

とはいえ生徒にとってのレリバンスを客観的に把握することは難しい。しかし田中伸は、レリバンス研究を詳細に整理したうえで、「何らかの有意味性を教師が授業に内在させるのではなく、教師と子どもが共にそれを考え、議論するコミュニケーションの場と捉え直す必要性」を提起し、それが学校や教育を民主主義的にするとまとめる。(pp.69-70)
 田中のまとめには思わず唸った。しばしばレリバンスとか「真正の学び」の議論になると「有意味性は生徒一人一人によって異なるのだから、それを教師が一つ定めたとて、それが真正の学びを担保するとは限らない」という批判が聞こえてくるし、私もそれを声高に主張してきた。しかし、教師と生徒が社会的に意義あるものと感じられるものをコミュニケーションする中で構築し、それを共に考察することができるような授業にすることによって、生徒を歴史の授業に向かわせることができるだろう。「レリバンスは必要だ!」「でも担保できるはずない!」がアウフヘーベンしたような気分だ。
ここからは私の構想だが、やはり歴史総合では生徒がどのような社会的事象や課題に関心があるかを見取り、生徒それぞれにとっての学ぶ意味を実感できるような授業を展開したいと思う。二井は、「『指導と評価の一体化』のための学習評価に関する参考資料」に掲載されている単元例を分析し、「(問いを表現する授業で表現された)「問い」も子どもの視点からの問いではあるが、受験競争、親子関係、子どもの貧困などなど、もっと子おも一人一人にとって「自分事」となる「問い」、「個人的レリバンス」に基づいた「問い」が引き出せないだろうか」と提起している(p.27)。これは奇しくも、拙稿(2021)で「(生徒が表現した問いは)『現代的な諸課題』に触れる問いはほとんどない。…本実践で生徒が切実に考えたいと思う問いを表現できたとは言い難い。生徒にとって『真正な学び』をどのように実現するか、今後の課題としたい」と述べた問題意識と通ずる。その改善策は21年度実践で「観点」を用いて現代的諸課題をブレストする導入を取り入れたことで若干の改善ができたうえ、「質問づくり」(ダン・ロスステインほか)を基にした私の実践は資料に縛られがちという課題もあるものの比較的自由に「問い」を表現できる余地を残しているため生徒一人一人にとってのレリバンスを担保しやすく、またそれを教師が見取ることで生徒と教師とのコミュニケーションの場となっていると言えなくもない。さらに良いものができるよう、今後も実践的に研究していきたい。

*1:ちなみにここで扱われている「自由」に関する資料から問いを表現する授業は、20年度に私が宮本先生の依頼で実践した授業を、授業者を変えてさらにブラッシュアップしたものである。

「歴史総合」中項目(4)の試行錯誤(12.26追記)

 

「歴史総合」中項目(4)について、実践上考えておきたいことがある。

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1.4つの疑問

  1. 5つの観点は全て扱わなくてよいのか?
  2. 本当に現代的な諸課題を考察させるのか?
  3. テーマを何にするか?
  4. どのように教材作りするの?(←12/26追記)

この記事では、上記4つの疑問と、それを踏まえて私がどう克服しようと考えているかの試案を述べてみたい。

 

1.5つの観点は全て扱わなくてよいのか?

「自由・制限,平等・格差,開発・保全,統合・ 分化,対立・協調」の5つの観点のうち1つの観点しか扱わないとすると、大項目2・3で合計2つの観点しか扱えないことになる。*1

もちろんこれらの観点は、日々の主題学習の中で自然に使われる重要概念であることに違いない。中項目(2)(3)の中で、「統合と分化の観点でアジアのナショナリズム運動において生じた問題を考えよう」と主題(≒問い)を設定してもよいわけである。

一方で、「開発と保全」は使用がなかなか難しい。私の知識不足が原因だが、その観点に焦点化して産業革命の授業を行うと、その他の事象が捨象されるように感じる。だからこそ、中項目(4)で「開発と保全」という観点でそれまで扱ってきた歴史的事象を振り返るという学習にしてもよいかもしれない。

が、この観点を用いて現代的な諸課題の形成に関わる主題学習を行うとき、やっぱり5つの観点全てを扱いたい気もする。(入試に寄せるわけではないが、入試が「開発と保全」でテーマを組んだ問題を出題した時、その観点で学んでいない生徒は不利になるだろうから、この問題は入試第一主義の方にとっても考えるべき問題なんじゃないかな。余談を重ねると、すると資料集は観点を用いて各主題を振り返られる某社や、中項目(4)で全ての観点を取り上げて問いと資料を載せている某社が入試対策的には有利?)

 

2.本当に現代的な諸課題を考察させるのか?

これは学習指導要領をよく読めば答えが出る。

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「現代的な諸課題の形成に関わる~歴史を理解する」が授業目標なのであって、現代的な諸課題そのものを探究的に考察することはしないのである。たとえば、「在日外国人に参政権を与えるべきか」という論争問題があるとして、それを探究するとなれば現代の政治学を紐解く必要が出てくる。むしろその手の議論の資料を読まない限り、生徒は「なぜこの問いを考えるのにその資料がないの?」となるだろう。

しかし、これは「歴史総合」であり、地理歴史科なのである。大きく括れば社会科であるが、その中で歴史であり、かつ高校の「歴史総合」なのである。「歴史総合」で何を扱うのかというカリマネをきちんとしたいところである。学習指導要領では、「の形成に関わる~歴史を理解する」が目標であり、「現代においても…課題として残存していることに気付くように」指導すると示されている。「気付く」というのがポイントであり、ここでは決して「探究する」とは書かれていないのである。この点をはき違えて現代的諸課題の探究学習が始まれば「公共」になってしまう。あくまでも「気付く」だけで十分と割り切ればよいのではないか。

 

3.テーマは何にすればよいのか

これは実践上の課題である。たとえば学習指導要領の「近代化と私たち」では、「南北戦争は,アメリカ合衆国国民国家化にどのような意味をもったのだろうか」(統合と分化)という問いが例として挙げられている。これを律儀にやったとしよう。しかし問題は、では中項目(2)(3)の主題学習でアメリカ合衆国をどのように扱っているのかという問題である。扱っていないのに、第一次世界大戦前夜までの学習が終えたところで突然アメリカ合衆国南北戦争を扱うのは不自然だと思う。

しかし、これは「通史学習」を肯定したいわけではない。

(現行課程のA科目との)相違点の第一は、歴史総合では近現代史の通史的・年代的学習ではなく主題学習になることです。従前の世界史Aや日本史Aにも主題学習はありましたが、それは通史的学習の補完的位置づけでしたから、仮に主題的学習を取り扱わなくても特段の不都合はありませんでした。しかし、歴史総合に通史的学習はなじみません。全てが主題的学習と考えた方が良いと思います。(原田智仁「いよいよはじまる歴史総合ってどんな科目?」(『Research』2021,清水書院

原田の説明通り、歴史総合は主題学習だし、そういう意識で授業に取り組みたい。しかし、教科書がある程度の年代順で掲載されているし、時系列的に捉えるという歴史的な見方・考え方を働かせて歴史を学ぼうとするとき、やはり中項目(4)のタイミングで唐突に南北戦争が出てくるのは不自然な気もする。仮に主題学習で南北戦争を扱っているのであれば、わざわざ一時間かけてまた南北戦争を扱う徒労感もあるし、なんだかとってつけたような扱い方だ。

では、一体どんなテーマに設定すればよいのか。

 

4.どのように教材づくりするの?

某研究会で、中項目(4)から作成し、それに向けて(1)~(3)を構成するという単元開発が提案されていた。その研究会では「近代化」「国際秩序の変化や大衆化」「グローバル化」の3班に分けて単元開発を行っていたのだが、そのほとんどが中項目(4)の「観点」を最初に一つ定めてから授業をデザインしていた。

ただ、上記1節で述べたように、1つの観点で単元全体を貫くことは学びの幅を狭めてしまうような気もするし、そもそも学習指導要領が扱うことを求めるコンテンツを一部無視する議論のようにも見える。教師の「ゲートキーピング」を前面に出した結果、コンテンツが蔑ろにされる事例と見た。

また、指導要領には「内容のA及びBの(1)から(3)までの学習などを基に」と書かれている。すなわち、(1)の問いを表現をする学習は、生徒が自らの関心を問いとして表現し、その関心を出発点に(2)(3)で主題を設定するのだから、(4)は(1)~(3)で見られた生徒の学びを踏まえて構成する必要がある。「生徒はここが理解できていなかった」という形成的評価を行ったうえで「ではそこを補うこの観点で教材化しよう」とか、逆に「生徒はここまで考えることができたんだ!」という学びを受けて「ではもっと深めるためのこの教材を」とか「別の観点を用いて○○化の歴史を捉えさえてみよう」といった主題学習のデザインが想定されるだろう。

もちろん、ここで目標なき生徒の発散的思考から教材を作ろうなどとは考えていない。ある程度の恣意性と誘導は授業である以上あってしかるべきだ。

前向きモデル:既存の教育目標を仮のゴールとして,子供の「今できること」「わかること」を出発点に,それを引き出しながら目標を越えられるような,よりよい指導方法を教育現場が常に模索し実践し成果を日々評価する。子供が目標を超えて学ぶ姿を見せれば,それに合わせて目標を高く設定し直す。 
白水始 「評価の刷新―「前向き授業」の実現に向けて―」(国立教育政策研究所(編)『国立教育政策研究所紀要第146集』,pp.37-48.(2017)pp.39)

 

「仮のゴール目標」を設定するのであるが、あくまでも仮である。仮に中項目(4)の教材が「共有」されるのだとしても、「なぜその主題を設定したのか」を生徒の実態の基に説明されていなければならないだろう。

 

 

2.試案

以上4つの疑問点と私見を述べてきたが、ここで試案を述べる。それは、

 

・知識構成型ジグソー法で一つの主題を提示し、

・各エキスパート資料を3つの「観点」でそれぞれ学習し、

・その主題を解きつつ、「近代化/大衆化の歴史」はどんな歴史かを問う。

 

具体的には、「国際秩序の変化や大衆化と私たち」ではこんな授業を想定している。

 

メイン課題「なぜ女性は積極的に国防婦人会に参加して戦争に協力したのか」

エキスパートA「国防婦人会は他にどんなことをしたのか」

 → 琉球への国民化政策(統合と分化)

  資料:主題学習で扱ってきた、同化政策民族自決の問題点

エキスパートB「当時の女性たちはどんな社会を生きていたのか」

 →近代家族からの解放(平等と格差)

  資料:主題学習で扱ってきた、WWⅠ期や大正期の女性の社会進出と差別

エキスパートC「なぜ国防婦人会は大日本婦人会に改められたのか」

 →政府による女性利用(自由と制限)

  資料:主題学習で扱ってきた、ナチの女性政策・WWⅠ期の女性

+α課題「この学習で分かった大衆化の歴史における課題は、現代においてどの程度克服されたといえるのか」

 

この授業では、主題学習で扱ってきた資料を詰め込んで単元末に「国際秩序の変化や大衆化の歴史」を概念的に理解するという、拙稿(2021)の取り組みを一部残している。拙稿(2021)に掲載した20年度の実践は、学習科学の知見を自分なりに生かしたもので、生徒が「大衆化」を自分の言葉で何度も外化する機会を設けることで、対話によってその理解を高次のものにしようとする試みであった。実は「近代化」でも同様の実践を行っており、それは一応の成果を見ていた。かなり生徒は書くことができるようになっている。しかし、生徒の理解が既に深まっているため(少なくとも生徒がそう自覚しているため)、思った以上の対話が引き起こされず(話さなくても分かるから)、よりいっそうの深まりがなかったという反省があった。

そこで、今年2021年度は、授業では扱ってこなかったテーマを主題に据えることで生徒に「探求」活動をさせ、知識構成型ジグソー法によって協調学習を引き起こすことで「大衆化の歴史」を理解させるとともに、5つの観点のうち3つの観点を用いて多面的・多角的に考察できる学習に進化させることにしたのだ。しかも復習もかねている。問い自体に現代的な諸課題は含まれないが、この考察の中で出てくる諸課題から+α課題を考察することで「現在においても対応が求められる課題として残存していることに気付くよう」指導したい。

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この取り組みが上手くいくかどうか。教材研究頑張ろう。

 

【参考】

藤井忠俊『国防婦人会: 日の丸とカッポウ着』

NHKスペシャル「国防婦人会 戦争にのめり込んだ 母親たちの素顔」
https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0029/topic031.html

(他にもお勧め文献、論文あったら教えて下さい!)

*1:大項目4「グローバル化と私たち」の中項目(4)は歴史総合のまとめとして位置づく探究学習であるため、教師が観点を取り上げて主題を設定する学習は、「近代化と私たち」と「国際秩序の変化や大衆化と私たち」の2回しかないことになる。

草原和博ほか『学びの意味を追求した中学校の歴史の単元デザイン』と「市民性の育成」について

草原和博,渡邉巧『学びの意味を追求した中学校の歴史の単元デザイン』を読んで考えたことを吐き出しつつ、「市民性の育成」と「コンテンツの扱い」との折り合いに関して結論から言うと、「理論としてはその折り合いに成功したように見えるが、それでいいの?」というのが感想である。

www.amazon.co.jp

 

さて。Twitter社会科教育界隈では、市民性の育成とか民主主義の貢献とかが話題となっている。歴史学畑はあまり気にかけてこなかったきらいがあるが、学習指導要領の「世界史探究」を紐解くと、「目標」には以下のように書かれている。

社会的事象の歴史的な見方・考え方を働かせ,課題を追究したり解決したりする活動 を通して,広い視野に立ち,グローバル化する国際社会に主体的に生きる平和で民主的 な国家及び社会の有為な形成者に必要な公民としての資質・能力を次のとおり育成することを目指す(「地理歴史編 高等学校学習指導要領(平成30年公示)」

「公民としての資質・能力」を育成する、とある。そして、この柱書は、(1)知識・技能、(2)思考力・判断力・表現力、(3)学びに向かう力の3つの目標を、有機的に関連付けることで達成されるという構造になっている。

では、上記のような「目標」をどうすれば実現できるのだろうか。内容A・B・C・Dの中項目(1)~(3)、並びにEの(1)~(4)をこの順序で取り扱うことになっている。そして、中項目(1)は導入としての「問いを表現する」学習であり、主題学習である中項目(2)がこれに続く。

つまり、学習指導要領は、これらの「内容」を扱うことで「目標」が実現されるというという書き方をしている(詳細は割愛するが、その内容を「理解させる」だけで良いとは言っていないとだけことわっておく)。

 

しかし、社会科教育学は「学習指導要領」に満足しない。平成30年以前の本になるが、草原和博は以下のように指摘する。

「公民的資質を育成することは容易ではない。…第1に、コンテンツベースドのカリキュラムの問題である。民主的な国家・社会の形成者に求められる資質・能力の育成という目標を学習指導要領に掲げたとしても、実質的には、地理・歴史・公民の分野固有の論理で内容が決まっていく。目標は後付けの形式で、実質的には先に内容ありき。」(草原和博「社会的レリバンスを高める地理教育をデザインする」(唐木清志『「公民的資質」とは何か』東洋館出版社,2016)

 

つまり、上記に示した学習指導要領の「目標」と「内容」の不一致が嘆かれている。この認識は、草原(2021)にも貫かれていることが読み取れる。

「単元をデザインするとは、これらの出来事を『敢えて取り上げる目的』をあらためて問い直すことである。通常はこういう問いはスキップされる。大事だから教えるし、教科書に書いてあるから教える。教師は自分が習ったこと。知っていることは当然教えるものと信じている。既定の事項を順番に教えるだけのところに、「単元」という発想は芽生えない。そうなると教師は単なる知識の伝達者=インストラクターに堕してしまう。(p.17)

 

この改善案として、草原は、教師にカリキュラムの調整・裁定者=ゲートキーパーになることを求める。さらに、そのコンテンツをなぜ取り上げるかという「エイムトーク(aim talk)」を行うことが単元目標の明確化につながり、単元目標を設定したうえでコンテンツの軽重をつけるよう述べる。(pp.17-18)

そのうえで草原が提案するのが、IDM(Inquiry Design Model)である。IDMは、①「関わりある(relevant,レリバント)」探究と、②「厳格な(rigorous,リゴラス)」探究の2つを原則として掲げ、授業構成としては、「問い、タスク(活動)、資料の3点を中核にして授業を組み立て、Blueprint(青写真)と呼ばれる1枚物シートに単元デザインを表現することを特色とする」ものであり、「この考え方をベースに、これからの社会科づくりに大切な、①自己と社会との関わりの中から、問いを見出し解決していく「探究」、②自己と他者との関わりを通して、答えを表現し社会に働きかける「論証」という2つの活動を車の両輪にし」ている。(扉より引用)

①「関わりある(relevant,レリバント)」探究は、条件A「子どもの課題に応える社会科」、条件B「社会的な課題に応える社会科」、条件C「文化的・経済的に排除、抑圧された立場の要求を受け止める社会科」という社会科らしさの条件を満たすことである。この手の議論は、社会科教育学の議論をするときによく聞かされてきた話に通ずる。

このデザインが特に面白いと感じたのが、②「厳格な(rigorous,リゴラス)」探究である。すなわち、条件D「A,B,Cの条件を、従来の規範や常識にとらわれず、学問的視点から解決していく社会科」を必要とする点である。リゴラスで深い学びによって、日常知を超えて批判的・多角的に課題を把握することができる。草原は、「反知性主義への抵抗である」と言い切る。(p.21)

このように、社会科らしい単元を立ち上げるために「①コンテンツ(内容、何を使って)×②レリバント(主題、何のために)×③リゴラス(視点、どこまで探究させるか)」の観点を要求している。(p.22)

この概念によって、私が常々感じてきた「目標ありきでコンテンツを軽視する歴史学習」を超克することができる。目標を先行させて「そんなことよりも詐欺師に引っかからない能力を身に付けさせた方がいい」という極端な論者や、ビジネスパーソンこそが食い付きそうな俗っぽい授業案に対して違和感や忌避感を抱いてきたが、この「学問的視点から解決していく社会科」という概念は、私にとって肯定的に受け入れやすいものであった。

 

さて、これ以上の詳細を説明することはやめておこう。良い本なので実際に購入されるのをお勧めする。以下、本書を読んでいることを前提に、疑問を投げかけたい。

 

疑問1 「発展的PT(パフォーマンス・タスク)」と「社会に向けた知的な行動」を、「実際の運用では…扱わないという選択もあり得る」(p.31)と妥協するのはアリなの?

単元の終結部に行う「発展的PT」は、「学習成果を個人で表現するだけでなく、他者との間で協働的に表現する活動」を意味するものであり、「社会に向けた知的な行動」も、「教室内、学校、地域社会の3次元」に働き掛けるものであり(p.31)、それらは市民性教育として、「現実的な課題をめぐって自己の解釈や主張を他者に伝えることを志向」するとされる(p.34)。たとえば、世界の古代文明の単元であれば「文明の衰退を防ぐために、どのような対策が行われるべきだったか、なぜできなかったのか、クラスで話し合ってみよう」(p.55)、ヨーロッパ人との出会いとの単元であれば「新聞記事などから現代における異なる価値の接触・衝突の例とその影響を話し合い、ポスターセッションを行う」(p.84)といったが学習活動が設計されている。

しかし、これらが現実的な時間的制約の中で「扱わない」という選択肢があっていいのだろうか。無論、私のような、学習指導要領に基づいて「内容」を扱えば「目標」を達成できると素朴に考え、「目標」を「内容」の副次的成果と見なす論者からすれば、この妥協は妥協してほしい点に違いないのだが、草原(2016)では、「公民的資質」を「子どもが自己と外界(他者、社会、科学)との間に関わりを見出すことで、新しい社会秩序を構想できること」と定義したうえで、この「資質・能力の育成こそ、社会科の責任ではないか」(Kindle,1305/2817)と主張していたのに、その最も重要な学習活動が省略されてもいいというのは、社会科教育学の提言としてどのような意味を持つのだろうか。

私は、社会科教育学の議論において、社会科教育学プロパーから「市民性の育成をエビデンス・ベースで標榜しないとダメ!」と批判されてきたと認識しており、社会科教育学は、現実にはコンテンツありきの中でどう資質を育成するか、といった本音と建前を一切認めない態度をとる学問だとてっきり勘違いしていた。渡部竜也の「問いの構造図」についても、「EQの考察は一体いつやるんだ?時間はあるのか?」といった疑問が浮かばないわけでもなかったが、コンテンツを軽視してでもそれを捻出するのが「ゲートキーパー」たる社会科教員に求められる専門性だと思わされてきた。例の始皇帝の授業についていえば(私は現代の中国人のアイデンティティの由来でもある『中国5000年の歴史』の転機としての始皇帝の意義を理解させることを一つの目標にしていたのだが)、現代的諸課題に直接結びつく「法治主義vs徳治主義」の「論争問題」を扱え!と嘲笑を交えながら批判されてきたのであり、別の論者からも「為政者による言論弾圧」をテーマにすべきであり、そのためには(民主主義に最大限貢献するためには)「陳勝呉広の乱」を扱わなくてもよい、と批判されてきた。もちろん私が実践した学習課題「始皇帝を評価しよう」は死ぬほどつまらなくて改善の余地しかないのだが、それでも市民性の育成を最優先にしなければ、生徒が実際にどう学んだかとか、その授業が単元内でどう機能するかといったことには全く関心が払われることなく、その一点においてのみ批判されるという経験をしてきた。

であるにもかかわらず、「公民的資質」の重要な要素である「社会参画」につながる学習活動と見える「発展的PT」および「社会に向けた知的な行動」が実施されなくてもよいという開き直りは、社会科教育学の文脈だと許され得るのだろうか?それが許されるのだとしたら、私がコテンパに受けてきた批判は一体何だったというのか?

 

疑問2 なにも「ゲートキーパー」というアイデンティティを持たずとも、学習指導要領に合わせれば「単元」という発想が芽生えるのではないか。

先に引用した箇所であるが、授業者は「aim talk」することによってその内容を教えるの理由は何かを批判的に検討し、単元の目標を定めるゲートキーパーになる必要性があると述べられている。たとえば第2章以降の実践編において、「世界の古代文明」であれば、「子どもとの関わり」や「社会との関わり」の検討の中から、森林伐採と文明の衰退という歴史を教訓として捉えさせ、現代社会との接続を図る実践が紹介されている(面白い!)。

しかし、学習指導要領を紐解けば、今回の改訂によって良くも悪くもカリキュラムデザインが誘導的で拘束を受けていることに気が付くだろう。「世界史探究」の大項目D「 諸地域の結合・変容」の中項目(2)「 世界市場の形成と諸地域の結合」では以下のように示される。

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つまり、「〇〇などを基に」,「~などに着目し」,教師が「主題を設定し」,その主題を学習上の課題とするために教師が問いを設定して,その問いを踏まえて,「~などを多面的・多角的に考察し,表現する」学習を行うことで,「□□を構造的に理解すること」に至る学習の過程が考えられる、のである。

この単元だと、「自由主義ナショナリズム」(〇〇にあたる具体的な歴史的事象)などを基に「国民国家と近代民主主義社会の形成」(□□にあたる歴史的な概念)を構造的に理解することが学習内容の目標とされている。

従来の歴史教育では、この「〇〇」にあたる歴史的事象を教え込むことがゴールであり、それ以上の学習はなく、そのために「分かりやすいチョーク&トーク」が手段として択ばれてきた。しかし、今回の学習指導要領は「□□」という概念が理解のゴールとして強調されている。すなわち、「国民国家と近代民主主義社会の形成」を理解させることが理解目標なのである。

この学習指導要領の理念に基づけば、「僕がカリキュラムのゲートキーパーだ!」のような尊大な自負がなくとも、概念を理解させるという学習目標にのみ照らして言えば、自ずと「単元」をデザインすることができる(=単元という発想は芽生える)。具体的に言えば、19世紀のロシアを扱う上で何が重要かと咄嗟に問われれば「南下政策かな」などと答えがちなところを、学習指導要領の解説を見れば、「ロシアやオーストリア における皇帝主導の改革とその限界…に気付くようにする」と親切丁寧に示されており、それが「国民国家と近代民主主義社会の形成」の概念に収束していくことが分かる。

実際、本書の授業実践も、学習指導要領からデザインがスタートしているものが決して少なくない(3,4,7,11,17,20)。もちろん、実践13のように、学習指導要領の要求を批判的に退ける実践もある(面白い!)。

話はそれたが、要は学習指導要領および教科書のコンテンツをやり玉に挙げて「コンテンツドベースのカリキュラムだ!」と批判する必要もないように感じる(十分に単元学習はできる)。それともやはり、「市民性の育成」を何よりも優先すべき目標として掲げ、それを建前にせず、市民性の育成に直結する内容を取捨選択し単元を構成するゲートキーパーたれ、というのが本当の主張なのだろうか? でも、結局はそれでも「実質的には内容ありき」に感じてしまうのは私だけだろうか。

 

疑問3 「発展的PT」や「社会に向けた知的な行動」を実践したとして、本当に「市民性」は育成されるんですか?

もはやこれはいちゃもんかもしれない。ただ、具体例として挙げられている、発展的PT「学習成果を動画にしてYoutubeにアップしよう。共感できる友人の作品に『いいね』をつけて、コメントを伝えよう」、社会に向けた知的行動「『アメリカの現実から学ぶべきこと』というテーマで120字の作文を行い、Twitterにつぶやこう」という、対生徒・対社会の学習活動は、果たしてそれが「市民性」の育成に直結するのだろうか?その学習活動と学習効果を結ぶエビデンスは、あるのだろうか?

先に断るが、私はエビデンス・ベースの授業論が好きではない。

しかし、私は「その始皇帝の学習活動は市民性の育成に寄与しないので無駄」と散々罵倒されてきた。

このように、教師が選んだ学習活動が「市民性を得られる」と確証を得られない限りは批判の対象であり続ける。このような議論姿勢が社会科教育学の主流であるならば、草原の提案にも「どんな市民性が得られるのか」「本当に得られるのか」と批判的に尋ね続けてよいだろう。そして、散々批判されつくしてきた私に言わせれば、「アメリカの現実から学ぶべきことを120字でTwitterに呟けば社会参画したことになり、公民としての資質・能力が育まれるの?そんなんでよかったんだ」と興ざめしてしまうのである。そして始皇帝を評価する授業を適当に行った後、「歴史上の人物の評価が時代によってころころ変わることをテーマで作文を行い、Twitterに呟こう」(ただしそれは「扱わないという選択もあり得る)などという「知的行動」をカリキュラムデザインに設計すれば万事解決なの?と考えてしまうのである。そんなことはないだろうけど。

 

冒頭で結論を述べたように、IDMは、コンテンツありきの現実的制約の中で市民性の育成を目指すカリキュラムデザインと見えたが、そんなんでいいの?といった感想が第一であった。具体的な授業はどれも魅力的で、面白いうえに知的で、しかも単元としてまとまりがあるから素晴らしいんだけどね。また問いと資料をつなぐ各授業の「PT」は参考になった。とりとめもなくそれっぽい実践が並ぶ類書とは一線を画す内容であるのも間違いない。しかし、崇高な社会科教育学の議論に滅多打ちにされた私から見ると、ちょっと拍子抜けしてしまった次第である。

皆さんはどんな感想を持たれただろうか。

 

「(生徒が)問いを表現する」授業再考

【この記事の要点】

・18年度からの「問いを表現する授業」を振り返りながら、

・そもそも「なぜ問いを表現させるのか」を確認し、

・先行実践や私の実践(20年度)では「と私たち」の問いが表現されていないことを指摘する。

・私が21年度に試みたように、「と私たち」の問い=「真正な問い」をどう表現させていくかを考える機会としたい。

 

島村圭一, 永松靖典『問いでつくる歴史総合・日本史探究・世界史探究 ―歴史的思考力を鍛える授業実践』(東京法令,2021)が出版された。ここには「問いを表現する」授業がいくつか掲載されており、よりいっそうの議論の活性化が見込まれる。この実践本を踏まえつつ「問いを表現する」授業を再考したい。

 

www.amazon.co.jp

 

 

1.「質問づくり」との出会い

新学習指導要領が公示されると、私が属する研究会では激震が走った。

「問いは教師が教材研究をして、練りに練って作り出してきたものだ。それを生徒が作れるはずがない!」

とはいえ、それでも問いを表現させなければならない。そこで、「型」に頼ればいいと私や他のメンバーが着目したのが、ダン・ロスステインら『たった一つを変えるだけ』の「質問作り」の手法であった。詳しくは以下のブログ参照。

 

ただし、「質問づくり」は、「生徒に民主主義的な思考と行動を可能にする習慣を身につけ」るために生み出された手法だということを忘れてはいけない。

 

こういう前提があるにもかかわらず、それでも「無理難題」と考えられた「(生徒が)問いを表現する」授業をなんとか形あるものにするために、私は「質問づくり」に飛びついたのである。

 

2.18年度と19年度の実践で「歴史総合」の形式を表面的に実現

▼18年度 単発で「問いを表現する」授業を実施:「歴史的な見方・考え方」を働かせる授業として実践

この時の問題意識は、①とにかく無理難題な「問いを表現する」授業を実現することと、②問いを表現するという学習の過程で生徒が「歴史的な見方・考え方」を働かせられるようにすること、の2点であった。

指導要領に合わせて「質問づくり」を改変しており、質問の焦点に加え、史資料を提示することで、時期や推移とか多面的・多角的とか「見方・考え方」が表現された問いに表れると考えたのである。

実際、判定は甘々だが、それっぽい問いが表現され、特に「開いた問い」から「閉じた問い」に転換されるとき、仮説をつくる生徒が現れ、その仮説をつくる中で時期や推移に着目したり、因果に着目したりしていたのだ。なお、思った以上に問いをつくり学習自体がハードルの低いものであることを実感する。この成果と課題については、「オンライン歴史総合・探究研究会」で報告することができた。

 

▼19年度 単元の導入で実施:生徒の興味や関心を引き出し、それを出発点にした単元学習の導入として実践

19年度は、問いを表現する学習から始まる単元を構成した。堀哲夫の「OPPシート」もどきの「単元学習シート」を開発し、その上部に生徒が表現した問い(❶単元を学ぶ上で重要だと思う問い、❷現代を生きる私たちにとって重要だと思う問い)を記述させ、その1枚のワークシートに、各授業のメイン課題の考察を記述させ、単元終了時に、❶と❷の問いを踏まえて大衆化を概念化させるという実践を行った。これで形式的はかなり歴史総合に近づくことができた。

単元学習シートに関しては、株式会社ラーンズのWeb記事が参考になる。(20年度の授業実践)。

www.learn-s.co.jp

 

3.そもそもなぜ「問いを表現する」学習を行うのか

この頃から、生徒は意外と問いを表現できること、一方で「歴史的な見方・考え方」とは何かよく分からず、それを育む実践は現状かなり厳しいと判断したことから、「問いを表現する」授業への関心も変わってくる。ここでそもそも論に戻ったのである。

 

学習指導要領には以下の通り示されている。

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「興味・関心をもったこと、疑問に思ったこと、追究したいことなどを見いだす学習活動」であるのだから、そこで表現された問いは”生徒の興味・関心の表れ”と理解することができ、その「問いを踏まえ、主題を設定し、資料を活用して課題を考察する」授業が、その次の展開にやってくるのである。

すなわち、学習指導要領に示されている問いを表現する学習は、以下のような先行事例とは異なる。

 

  • 宮本英征のように、同一授業内で教師が発問しながら問いを洗練させることによって質の高い問いを表現していく学習*1
  • 永松靖典のように、「その問いがどのような見方・考え方を働かせる問いとして機能するか、そして、その問いを追究することによって、どのような歴史的思考力を育成し、鍛えていくかということを意識した問い」(島村,永松,2021,p.28)、すなわち、かつては教師が投げていた発問を「つくらせたり」する学習
  • 加藤公明のように、一つの画像資料から気になることを挙げていく「変だな探し」(高大研2020の野々山報告も「変だな探し」の一つだと思う)

「問いを表現する授業」は、あくまでも生徒の興味・関心を見取り、単元の見通しを持たせる学習なのではないだろうか。そして、上記の実践は、「と私たち」の視点に欠けているように感じる。そして、興味・関心を見取ったうえで、その関心を満たすことができるような資料を少しずつ取り入れたり、問いを変えたりすること(=指導と評価の一体化)こそが大事なのである。「どんな問いを表現できたか」を総括的評価の対象にはしないのである。

 

▼20年度 単元導入として実施し、診断的評価を行った:生徒の興味・関心を見取り、各授業の主題学習に反映して実践

さて、私の実践はどうであろうか。これについては拙稿(2021)をご覧頂きたいのだが、工夫した点は以下のとおりである。

 

  • 複数の資料を示して「質問の焦点」を設定したことで、生徒の多様な興味・関心に応えられるようにした
  • 「現代を生きる私たちにとって大切な問いをつくってみよう」という学習活動をいれることで、「と私たち」に関わる問いを表現させようとした
  • 表現された問いを「生徒の興味・関心」と捉え、それに応じて次時以降の問いや資料を柔軟に変えた。(これは高大連携歴史教育研究会(2020)の野々山報告に大いに刺激を受けているし、この点は私なんかよりはるかに凄い)。

 

4.しかし、「と私たち」と結びつけることはなかなかできない

拙稿(2021)にも課題として挙げたように、現代的諸課題をまなざす生徒の問題意識が問いとして表現されない。問いではなく、振り返りの項目で「BLM」とか「香港」とかのワードが出てくるが、それが本当に生徒の問題意識かどうかも分からないし、その単元を通じてそれを探究する学びに発展する様子も見られない。資料は読んだけれども、生徒にとっては「私たちの歴史」ではないことが浮かび上がったのだ。

このような現状認識を把握できるようになったのも、渡部竜也『Doing History』で「実用主義」の観点を学んだところが大きい。そして、豊嶌 啓司 , 柴田 康弘の論文や、*2まだ読めていないがニューマン『真正な学び』に関連する議論を見聞きする中で、「と私たち」の問い、すなわち「真正な問い」を表現する学習にしたいと感じた。

ところで、2021年7月28日(水)、全国歴史教育研究会の世界史探究の分科会で「問いを表現する」が紹介されたときも、フロアの野々山氏は「市民社会を生きる「私たち」の視点からの問いを引き出すことができていない」という趣旨のコメントを残している。やはり、実施初年度に向けては「と私たち」の部分が何よりも重要になるだろう。

 

▼21年度 現代の市民社会を生きる「私たち」の切実な問題意識をブレストした:「私たち」の課題を出発点にしてから問いを表現させた

なお、この頃ちょうど歴史総合の教科書見本が配布され、そこからヒントを得ることができた。東京書籍の大項目C中項目(4)の観点による学習のところで以下のような記述がある。

①1~4はいずれも日本とその支配地域の『統合』の様子を示している。どのような立場の人々からみた『統合』なのだろうか。また、この『統合』において大衆の意思はどのように反映されていたのだろうか。

②この時期の日本とその支配地域の人々は、どのような点で『統合』されずに『分化』していたといえるのだろうか。

③大衆の立場から見ると、現在の東アジアや東南アジアの人々は、どのような面で『統合』し、どのような面で『分化』しているといえるだろうか

この問いを見て、直感的にこれを導入にしてみたらどうだろうかと考えた。すかさずTwitterで意見を募る。

 

 

で、 その結果、こんな感じのワークシートになった。

 

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この学習活動で、現代的諸課題をブレストしたうえで生徒に問いを表現させた。すると、結構いい問いが出てくる。20年度までの問いに比べて、明らかに具体的で切実性があるように見えた。たとえばこんな感じ。

・なぜ民族による差別が生まれ、今でも続いているのか
・なぜ民族により学力の差が生まれ、差別が行われているのか
・出身や家柄関係なく、人は生まれながらにして貧富の差はないのか/平等なのか
・生まれながらに平等なはずなのに、社会的地位に差異ができるのはなぜか
・学ばない人だけでなく学べない人もいるのに、学力や知識で地位を決めようとするのか
・なぜ人間は平等を忌避し、比べ合うことにためらいを持たないのだろうか
・社会的地位の差や差別はどうしてできるのか、縮めることはできるのか
・出生がその後の格差に影響してしまうようになったのはなぜか

20年度までの実践では、資料に縛られた問いが多かった。極端な例だと、「(アメリカ合衆国憲法の条文について)各州の人口にその他すべての人々の人数の5分の3だけをなぜ加えるのか」といった、資料の意味を純粋に知ろうとする問いが多く目立った。しかし、21年度の実践は、最初のブレストが効いて、自分に関係が一応ある問いが目立ったのである。これには手応えを感じた。

 

以上、問いを表現する授業に対する私の授業実践の現状である。しかし、今度は現代的諸課題に対する生徒の現状認識が乏しいということが浮かび上がり、歴史の授業でどこまで扱うべきか迷うことになるのである。それについては余力がある時に別記事で。

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*1:宮本英征「近代化への問い ――問いの探究学習」(原田智仁編著『「歴史総合」の授業を創る』明治図書,2019、宮本英征「ICT活用 主体的・対話的だけではなく深い学びを保障する手段としての活用」(社会科教育57巻(11),明治図書,2020)

*2:豊嶌 啓司 , 柴田 康弘「社会科パフォーマンス課題における真正性の類型化と段階性の実践的検証」2018

問いの構造図の議論

TLで話題の中心になっている、「問いの構造図」。

社会科教育界隈では常に注目を受けていた渡部竜也だが、その訳本はどれも高価でかつ絶版も多い中、2019年に『歴史総合パートナーズ Doing History』(清水書院,2019)というお求めやすい価格で氏の議論が人口に膾炙し、『社会科授業づくりの理論と方法』(明治図書,2020)の刊行により、彼の授業理論「問いの構造図」の議論はいっそう加速した(サイトから論文をPDFでDLできたのだが、やはり書籍化は普及されやすい)。

 

問いの構造図の論点を、TLを追いながら、総ざらいしてみよう。なお、このブログで結論を示せるほど、私は問いの構図については理解が不足していることは先にお断りしておこう。

 

論点1「本当に教師が設定した問いの構造は、生徒の思考に無理のないものなのか?」

 この問いには、渡部先生から直接返事を頂いた(ツリー参照)。

しかし、「無理のない問いよりも、無理のない生活に則した問いやテーマにすべきかと思います」と、MQに限定する議論に代わり、それに気づかないまま議論が続行されてしまった。

私の意図としては、学習科学の知見にもとづけば、生徒が何に疑問を持ってどう理解を深めていくかは、生徒それぞれ異なっている。だとするならば、教師が問いの構造図を設計し、「生徒はこのテーマを学ぶときにこう疑問に思うはずだからこのMQにしよう。そして次に浮かぶ問いはこうなるはずだからこのSQを設けよう」と教材研究を進めても、それは生徒個々にとって本当に無理のない、突飛でない、疑問に思うべく疑問なのか分からないのではないか、という考えがありました。この疑問については、

ケンシ先生は、「問いの構造図、科学的探求で鍛えられた子たちは、最終的に「子どもの問い」で授業が可能になると思います」(ツリー参照)とお答えくださって、

星先生も以下のTweetのように

 ”生徒が自ら問いを探求的に立てて、授業者の用意していた問いと資料が前後することがある”というような趣旨の話をされていた。また、”探求的に問いを立てていく学びのモデリングとして機能する”とのご説明を頂きました。

 

 

論点2「問いの構造図のMAは、教師が設定したゴールだと思っていたけど、違うの?」

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この疑問の始まりは、次の通りです。まず渡部氏が私のTLの始皇帝の実践(始皇帝を高く評価する?低く評価する?)を引き合いに出して、「それよりも考えるべきことがある」と学びの真正性がないことを指摘し、続けて「なぜ始皇帝儒学者を弾圧したのか?」という問いを提案しました。「始皇帝焚書坑儒なんで今の我々から見れば愚行以外の何モノでもありませんが、だからこそ『なぜ?』と立ち止まって考えることが大切ではないでしょうか?」という素朴な疑問がMQになり、「法治主義対徳知主義の管理統制をめぐる議論」がMAとそこから後付けされるEQであることを示します。

ところが、教材研究をすると、始皇帝儒学者を弾圧したわけではないことが明らかになります。儒学者を弾圧した、というのは、班固『漢書』以降の儒学史観であり、実際には「儒者を埋めた」のではなく「術者を埋めた」(司馬遷史記』)だったようで、弾圧の理由は法家以外を認めないという思想弾圧ではなく、匈奴との戦時下において儒学者をはじめとする知識人が始皇帝を批判して民を不安定にさせたことを問題視しての対応だったとのことです(鶴間和幸『人間・始皇帝』)。

すると、「法治主義対徳知主義の管理統制をめぐる議論」を呼び起こすことはできません。そのことを渡部氏に指摘すると、以下のようなリプライが返ってきました。

 これが私を迷わせます。問いの構造図は、生徒が素朴に思うはずのMQを設定し、教師が教材研究の段階で5W1Hに整理して問いを構造化する(ケンシさんによると、問いを分解する、子どもの仮説から始める、のもあるとのこと!)ものだと思っていたからです。「教師が」教材研究した結果、「儒学者を弾圧しわけではなかった」が導き出されたのに、それが構成主義(「生徒が」道び出したゴールが、ある程度妥当ならば授業者の想定から変化しても構わないという立場)の考えとしては不適切である、と言われてしまったのです。主語が異なります。

これについては、鍵垢の先生から、「科学的=現時点で最も説得力のある仮説(ポパーなどの科学論?)なので、問いの構造図でMAを一つに想定しているのは、教師のたどり着けた最も説得力のある仮説を示しているに過ぎないのだと思っています」と説明を頂きました。間違いなく構成主義の立場です。

また、渡部氏も別のTweet構成主義の立場であることを示し、また説得的な主張をされます。

 ただ、やはり「主語が違うのでは?」問題には応えきれていない。星先生も、私とのやり取りの中で、その点については戸惑っているようではありました。

このやり取り一つをもって上げ足取りのように問いの構造図を批判することは断じて避けるべきですが、ちょっとした疑念が生まれます。それが以下の論点です。

 

論点3 「問いの構造図は、結局議論させたいEQが初めにあって、それに都合の良い知識が選択的に構造化される点で、氏が批判する「逆向き設計」と同じなのではないか」

であるならば、「問いの構造図」が主張するように、生徒が疑問に思う問いをこそMQにしなければならない、という縛りのようなものはいくぶん緩和されることになります。転じて、次の論点も。

 

論点4「生徒が素朴に思うはずである『なぜ』型のMQから出発するという問いの構造図は、渡部氏の理論を具体化する手段としての整合性を持たないのではないか」

この点、黒猫原理主義者さんは、「渡部竜也の『なぜ』に寄ったところで、おそらく最初に考えねばならないのは『なぜ〇〇なんて学ばなきゃいけないの?』から始まっていくはずが『なぜ〇〇は起きたのか?』などの問いを設定できるというところにそもそもの操作性を感じます」と指摘(Twitterログではありません)。その問題意識から、以下の投稿に見られる教材を開発されました。

 

こんなやり取りを経て、一応の丸い結論じみたものがこちら。

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ちなみに、私がそれでも問いの構造図に魅力を感じるのは、私の授業が生徒にとっては「難しく」、いまひとつ満足度が上がらない現状を、打破する可能性を見出しているからだ。私に足りていないものが全てそこにあるような気がしている。

 

ただし、年間指導計画の中で授業を講じるうえで、次の論点が出てくる。

 

論点5「問いの構造図および渡部氏の主張は、どの程度、年間指導の中で落とし込むべきだろうか」

真正な問いについては、「できるだけすべき」とのこと。これには首肯する。

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 また、問いの構造図による科学的探求学習はについては、全ての授業をそうするべきとは言わないし、授業はバラエティあるものにすべき、と渡部氏は著書で述べている(『社会科授業づくりの理論と方法』)。

とするならば、年間指導の中で歴史を「評価」し「解釈」する学習の一つとして、始皇帝をどう評価するかを生徒自身に考えさせることで、時代や立場によって始皇帝の評価が変わること、同じ授業を受けて同じ資料を読んでいるけれども、捉え方が人それぞれ異なるという構成主義的な知識観を生徒に理解させるために、私の授業があってもよかったのではなかろうか(結局そこかい)。

問いの構造図なら授業における問題の諸々を解決できる、とは考えてはならないことだけは確かだ。このことは、星さんも仰っていた。授業目標、生徒の実態に応じて、様々な授業理論・授業手法を組み合わせながら、授業改善をしていく必要があるだろう。そのために、私は問いの構造図をまだまだ学び続ける。

 

ブログをはじめました

ご無沙汰しております。

ボリバルと称している某公立高校の世界史教員です。

 

ブログを開設してみました。

目的は、日々考えていることをアウトプットすることで自身の考えを整理することと、ネットを通じて新しい歴史教育を担う教員間のネットワークを広げることです。

 

Facebookでも日記を書き綴っていましたが、広く発信しようと思い、匿名のまま思いを述べられるブログを開設した次第です。(Facebookでは研究会のアナウンスなどを行います)

 

負担にならない程度に更新します。どうぞよろしくお願い致します。