ボリバルブログ ~世界史教育の試行錯誤~

某公立高校の世界史教員が世界史教育について述べるブログ

草原和博ほか『学びの意味を追求した中学校の歴史の単元デザイン』と「市民性の育成」について

草原和博,渡邉巧『学びの意味を追求した中学校の歴史の単元デザイン』を読んで考えたことを吐き出しつつ、「市民性の育成」と「コンテンツの扱い」との折り合いに関して結論から言うと、「理論としてはその折り合いに成功したように見えるが、それでいいの?」というのが感想である。

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さて。Twitter社会科教育界隈では、市民性の育成とか民主主義の貢献とかが話題となっている。歴史学畑はあまり気にかけてこなかったきらいがあるが、学習指導要領の「世界史探究」を紐解くと、「目標」には以下のように書かれている。

社会的事象の歴史的な見方・考え方を働かせ,課題を追究したり解決したりする活動 を通して,広い視野に立ち,グローバル化する国際社会に主体的に生きる平和で民主的 な国家及び社会の有為な形成者に必要な公民としての資質・能力を次のとおり育成することを目指す(「地理歴史編 高等学校学習指導要領(平成30年公示)」

「公民としての資質・能力」を育成する、とある。そして、この柱書は、(1)知識・技能、(2)思考力・判断力・表現力、(3)学びに向かう力の3つの目標を、有機的に関連付けることで達成されるという構造になっている。

では、上記のような「目標」をどうすれば実現できるのだろうか。内容A・B・C・Dの中項目(1)~(3)、並びにEの(1)~(4)をこの順序で取り扱うことになっている。そして、中項目(1)は導入としての「問いを表現する」学習であり、主題学習である中項目(2)がこれに続く。

つまり、学習指導要領は、これらの「内容」を扱うことで「目標」が実現されるというという書き方をしている(詳細は割愛するが、その内容を「理解させる」だけで良いとは言っていないとだけことわっておく)。

 

しかし、社会科教育学は「学習指導要領」に満足しない。平成30年以前の本になるが、草原和博は以下のように指摘する。

「公民的資質を育成することは容易ではない。…第1に、コンテンツベースドのカリキュラムの問題である。民主的な国家・社会の形成者に求められる資質・能力の育成という目標を学習指導要領に掲げたとしても、実質的には、地理・歴史・公民の分野固有の論理で内容が決まっていく。目標は後付けの形式で、実質的には先に内容ありき。」(草原和博「社会的レリバンスを高める地理教育をデザインする」(唐木清志『「公民的資質」とは何か』東洋館出版社,2016)

 

つまり、上記に示した学習指導要領の「目標」と「内容」の不一致が嘆かれている。この認識は、草原(2021)にも貫かれていることが読み取れる。

「単元をデザインするとは、これらの出来事を『敢えて取り上げる目的』をあらためて問い直すことである。通常はこういう問いはスキップされる。大事だから教えるし、教科書に書いてあるから教える。教師は自分が習ったこと。知っていることは当然教えるものと信じている。既定の事項を順番に教えるだけのところに、「単元」という発想は芽生えない。そうなると教師は単なる知識の伝達者=インストラクターに堕してしまう。(p.17)

 

この改善案として、草原は、教師にカリキュラムの調整・裁定者=ゲートキーパーになることを求める。さらに、そのコンテンツをなぜ取り上げるかという「エイムトーク(aim talk)」を行うことが単元目標の明確化につながり、単元目標を設定したうえでコンテンツの軽重をつけるよう述べる。(pp.17-18)

そのうえで草原が提案するのが、IDM(Inquiry Design Model)である。IDMは、①「関わりある(relevant,レリバント)」探究と、②「厳格な(rigorous,リゴラス)」探究の2つを原則として掲げ、授業構成としては、「問い、タスク(活動)、資料の3点を中核にして授業を組み立て、Blueprint(青写真)と呼ばれる1枚物シートに単元デザインを表現することを特色とする」ものであり、「この考え方をベースに、これからの社会科づくりに大切な、①自己と社会との関わりの中から、問いを見出し解決していく「探究」、②自己と他者との関わりを通して、答えを表現し社会に働きかける「論証」という2つの活動を車の両輪にし」ている。(扉より引用)

①「関わりある(relevant,レリバント)」探究は、条件A「子どもの課題に応える社会科」、条件B「社会的な課題に応える社会科」、条件C「文化的・経済的に排除、抑圧された立場の要求を受け止める社会科」という社会科らしさの条件を満たすことである。この手の議論は、社会科教育学の議論をするときによく聞かされてきた話に通ずる。

このデザインが特に面白いと感じたのが、②「厳格な(rigorous,リゴラス)」探究である。すなわち、条件D「A,B,Cの条件を、従来の規範や常識にとらわれず、学問的視点から解決していく社会科」を必要とする点である。リゴラスで深い学びによって、日常知を超えて批判的・多角的に課題を把握することができる。草原は、「反知性主義への抵抗である」と言い切る。(p.21)

このように、社会科らしい単元を立ち上げるために「①コンテンツ(内容、何を使って)×②レリバント(主題、何のために)×③リゴラス(視点、どこまで探究させるか)」の観点を要求している。(p.22)

この概念によって、私が常々感じてきた「目標ありきでコンテンツを軽視する歴史学習」を超克することができる。目標を先行させて「そんなことよりも詐欺師に引っかからない能力を身に付けさせた方がいい」という極端な論者や、ビジネスパーソンこそが食い付きそうな俗っぽい授業案に対して違和感や忌避感を抱いてきたが、この「学問的視点から解決していく社会科」という概念は、私にとって肯定的に受け入れやすいものであった。

 

さて、これ以上の詳細を説明することはやめておこう。良い本なので実際に購入されるのをお勧めする。以下、本書を読んでいることを前提に、疑問を投げかけたい。

 

疑問1 「発展的PT(パフォーマンス・タスク)」と「社会に向けた知的な行動」を、「実際の運用では…扱わないという選択もあり得る」(p.31)と妥協するのはアリなの?

単元の終結部に行う「発展的PT」は、「学習成果を個人で表現するだけでなく、他者との間で協働的に表現する活動」を意味するものであり、「社会に向けた知的な行動」も、「教室内、学校、地域社会の3次元」に働き掛けるものであり(p.31)、それらは市民性教育として、「現実的な課題をめぐって自己の解釈や主張を他者に伝えることを志向」するとされる(p.34)。たとえば、世界の古代文明の単元であれば「文明の衰退を防ぐために、どのような対策が行われるべきだったか、なぜできなかったのか、クラスで話し合ってみよう」(p.55)、ヨーロッパ人との出会いとの単元であれば「新聞記事などから現代における異なる価値の接触・衝突の例とその影響を話し合い、ポスターセッションを行う」(p.84)といったが学習活動が設計されている。

しかし、これらが現実的な時間的制約の中で「扱わない」という選択肢があっていいのだろうか。無論、私のような、学習指導要領に基づいて「内容」を扱えば「目標」を達成できると素朴に考え、「目標」を「内容」の副次的成果と見なす論者からすれば、この妥協は妥協してほしい点に違いないのだが、草原(2016)では、「公民的資質」を「子どもが自己と外界(他者、社会、科学)との間に関わりを見出すことで、新しい社会秩序を構想できること」と定義したうえで、この「資質・能力の育成こそ、社会科の責任ではないか」(Kindle,1305/2817)と主張していたのに、その最も重要な学習活動が省略されてもいいというのは、社会科教育学の提言としてどのような意味を持つのだろうか。

私は、社会科教育学の議論において、社会科教育学プロパーから「市民性の育成をエビデンス・ベースで標榜しないとダメ!」と批判されてきたと認識しており、社会科教育学は、現実にはコンテンツありきの中でどう資質を育成するか、といった本音と建前を一切認めない態度をとる学問だとてっきり勘違いしていた。渡部竜也の「問いの構造図」についても、「EQの考察は一体いつやるんだ?時間はあるのか?」といった疑問が浮かばないわけでもなかったが、コンテンツを軽視してでもそれを捻出するのが「ゲートキーパー」たる社会科教員に求められる専門性だと思わされてきた。例の始皇帝の授業についていえば(私は現代の中国人のアイデンティティの由来でもある『中国5000年の歴史』の転機としての始皇帝の意義を理解させることを一つの目標にしていたのだが)、現代的諸課題に直接結びつく「法治主義vs徳治主義」の「論争問題」を扱え!と嘲笑を交えながら批判されてきたのであり、別の論者からも「為政者による言論弾圧」をテーマにすべきであり、そのためには(民主主義に最大限貢献するためには)「陳勝呉広の乱」を扱わなくてもよい、と批判されてきた。もちろん私が実践した学習課題「始皇帝を評価しよう」は死ぬほどつまらなくて改善の余地しかないのだが、それでも市民性の育成を最優先にしなければ、生徒が実際にどう学んだかとか、その授業が単元内でどう機能するかといったことには全く関心が払われることなく、その一点においてのみ批判されるという経験をしてきた。

であるにもかかわらず、「公民的資質」の重要な要素である「社会参画」につながる学習活動と見える「発展的PT」および「社会に向けた知的な行動」が実施されなくてもよいという開き直りは、社会科教育学の文脈だと許され得るのだろうか?それが許されるのだとしたら、私がコテンパに受けてきた批判は一体何だったというのか?

 

疑問2 なにも「ゲートキーパー」というアイデンティティを持たずとも、学習指導要領に合わせれば「単元」という発想が芽生えるのではないか。

先に引用した箇所であるが、授業者は「aim talk」することによってその内容を教えるの理由は何かを批判的に検討し、単元の目標を定めるゲートキーパーになる必要性があると述べられている。たとえば第2章以降の実践編において、「世界の古代文明」であれば、「子どもとの関わり」や「社会との関わり」の検討の中から、森林伐採と文明の衰退という歴史を教訓として捉えさせ、現代社会との接続を図る実践が紹介されている(面白い!)。

しかし、学習指導要領を紐解けば、今回の改訂によって良くも悪くもカリキュラムデザインが誘導的で拘束を受けていることに気が付くだろう。「世界史探究」の大項目D「 諸地域の結合・変容」の中項目(2)「 世界市場の形成と諸地域の結合」では以下のように示される。

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つまり、「〇〇などを基に」,「~などに着目し」,教師が「主題を設定し」,その主題を学習上の課題とするために教師が問いを設定して,その問いを踏まえて,「~などを多面的・多角的に考察し,表現する」学習を行うことで,「□□を構造的に理解すること」に至る学習の過程が考えられる、のである。

この単元だと、「自由主義ナショナリズム」(〇〇にあたる具体的な歴史的事象)などを基に「国民国家と近代民主主義社会の形成」(□□にあたる歴史的な概念)を構造的に理解することが学習内容の目標とされている。

従来の歴史教育では、この「〇〇」にあたる歴史的事象を教え込むことがゴールであり、それ以上の学習はなく、そのために「分かりやすいチョーク&トーク」が手段として択ばれてきた。しかし、今回の学習指導要領は「□□」という概念が理解のゴールとして強調されている。すなわち、「国民国家と近代民主主義社会の形成」を理解させることが理解目標なのである。

この学習指導要領の理念に基づけば、「僕がカリキュラムのゲートキーパーだ!」のような尊大な自負がなくとも、概念を理解させるという学習目標にのみ照らして言えば、自ずと「単元」をデザインすることができる(=単元という発想は芽生える)。具体的に言えば、19世紀のロシアを扱う上で何が重要かと咄嗟に問われれば「南下政策かな」などと答えがちなところを、学習指導要領の解説を見れば、「ロシアやオーストリア における皇帝主導の改革とその限界…に気付くようにする」と親切丁寧に示されており、それが「国民国家と近代民主主義社会の形成」の概念に収束していくことが分かる。

実際、本書の授業実践も、学習指導要領からデザインがスタートしているものが決して少なくない(3,4,7,11,17,20)。もちろん、実践13のように、学習指導要領の要求を批判的に退ける実践もある(面白い!)。

話はそれたが、要は学習指導要領および教科書のコンテンツをやり玉に挙げて「コンテンツドベースのカリキュラムだ!」と批判する必要もないように感じる(十分に単元学習はできる)。それともやはり、「市民性の育成」を何よりも優先すべき目標として掲げ、それを建前にせず、市民性の育成に直結する内容を取捨選択し単元を構成するゲートキーパーたれ、というのが本当の主張なのだろうか? でも、結局はそれでも「実質的には内容ありき」に感じてしまうのは私だけだろうか。

 

疑問3 「発展的PT」や「社会に向けた知的な行動」を実践したとして、本当に「市民性」は育成されるんですか?

もはやこれはいちゃもんかもしれない。ただ、具体例として挙げられている、発展的PT「学習成果を動画にしてYoutubeにアップしよう。共感できる友人の作品に『いいね』をつけて、コメントを伝えよう」、社会に向けた知的行動「『アメリカの現実から学ぶべきこと』というテーマで120字の作文を行い、Twitterにつぶやこう」という、対生徒・対社会の学習活動は、果たしてそれが「市民性」の育成に直結するのだろうか?その学習活動と学習効果を結ぶエビデンスは、あるのだろうか?

先に断るが、私はエビデンス・ベースの授業論が好きではない。

しかし、私は「その始皇帝の学習活動は市民性の育成に寄与しないので無駄」と散々罵倒されてきた。

このように、教師が選んだ学習活動が「市民性を得られる」と確証を得られない限りは批判の対象であり続ける。このような議論姿勢が社会科教育学の主流であるならば、草原の提案にも「どんな市民性が得られるのか」「本当に得られるのか」と批判的に尋ね続けてよいだろう。そして、散々批判されつくしてきた私に言わせれば、「アメリカの現実から学ぶべきことを120字でTwitterに呟けば社会参画したことになり、公民としての資質・能力が育まれるの?そんなんでよかったんだ」と興ざめしてしまうのである。そして始皇帝を評価する授業を適当に行った後、「歴史上の人物の評価が時代によってころころ変わることをテーマで作文を行い、Twitterに呟こう」(ただしそれは「扱わないという選択もあり得る)などという「知的行動」をカリキュラムデザインに設計すれば万事解決なの?と考えてしまうのである。そんなことはないだろうけど。

 

冒頭で結論を述べたように、IDMは、コンテンツありきの現実的制約の中で市民性の育成を目指すカリキュラムデザインと見えたが、そんなんでいいの?といった感想が第一であった。具体的な授業はどれも魅力的で、面白いうえに知的で、しかも単元としてまとまりがあるから素晴らしいんだけどね。また問いと資料をつなぐ各授業の「PT」は参考になった。とりとめもなくそれっぽい実践が並ぶ類書とは一線を画す内容であるのも間違いない。しかし、崇高な社会科教育学の議論に滅多打ちにされた私から見ると、ちょっと拍子抜けしてしまった次第である。

皆さんはどんな感想を持たれただろうか。