ボリバルブログ ~世界史教育の試行錯誤~

某公立高校の世界史教員が世界史教育について述べるブログ

二井正浩『レリバンスの視点からの歴史教育改革論』とレリバンス(関連性・意義)について

【レリバンスについて】
二井正浩『レリバンスの視点からの歴史教育改革論』を第1部まで読んでみたが、とても勉強になる。
レリバンスとは関連性・意義のことであり、社会科教育ではしばしば「自分事」として使用される。
原田智仁によれば「歴史教育歴史学研究の成果に依拠するところが多く『何を(内容)』『どのように(方法)』が中心的に論じられてきた一方、『何のために』という目標が自明視され、深められてこなかった」(p.9)のであり、しばしば渡部竜也が指摘するように、歴史嫌いを生み出してきた。
渡部竜也は『Doing History』(2019)で以下のように、教師がこれまで取り続けてきた(と渡部が考える)実証主義を批判し、生徒が学ぶ意義を実感できる実用主義を提案している。
今の学校の歴史教育に対して人々が不満を持つ最大の原因は、自分は歴史学者になるわけでもないのにどうして歴史学者にならなければならないのか、という根源的な問いに対して、歴史を教授する側の人間たち(歴史学者と高校教師)の論理ばかりが先行し、学ぶ側のニーズが置いてきぼりになり、一般の人々にとって納得のできる解答がこれまで十分に示されてこなかったことにあると考える。(渡部,2019,p.65)

では、実用主義の考えを取り入れれば、生徒は学ぶ意義を本当に実感するのだろうか。本書第2章の宮本英征の論稿*1は、ある高校の授業においては「多くの生徒は、歴史的事象そのものを学ぶことではなく、現代社会や生徒自身に結び付けて学ぶ…ことに意味や意義、動機といったレリバンスを構築したこと」を明らかにした(p.50)。これは渡部の主張を裏付ける結果と言える。

とはいえ生徒にとってのレリバンスを客観的に把握することは難しい。しかし田中伸は、レリバンス研究を詳細に整理したうえで、「何らかの有意味性を教師が授業に内在させるのではなく、教師と子どもが共にそれを考え、議論するコミュニケーションの場と捉え直す必要性」を提起し、それが学校や教育を民主主義的にするとまとめる。(pp.69-70)
 田中のまとめには思わず唸った。しばしばレリバンスとか「真正の学び」の議論になると「有意味性は生徒一人一人によって異なるのだから、それを教師が一つ定めたとて、それが真正の学びを担保するとは限らない」という批判が聞こえてくるし、私もそれを声高に主張してきた。しかし、教師と生徒が社会的に意義あるものと感じられるものをコミュニケーションする中で構築し、それを共に考察することができるような授業にすることによって、生徒を歴史の授業に向かわせることができるだろう。「レリバンスは必要だ!」「でも担保できるはずない!」がアウフヘーベンしたような気分だ。
ここからは私の構想だが、やはり歴史総合では生徒がどのような社会的事象や課題に関心があるかを見取り、生徒それぞれにとっての学ぶ意味を実感できるような授業を展開したいと思う。二井は、「『指導と評価の一体化』のための学習評価に関する参考資料」に掲載されている単元例を分析し、「(問いを表現する授業で表現された)「問い」も子どもの視点からの問いではあるが、受験競争、親子関係、子どもの貧困などなど、もっと子おも一人一人にとって「自分事」となる「問い」、「個人的レリバンス」に基づいた「問い」が引き出せないだろうか」と提起している(p.27)。これは奇しくも、拙稿(2021)で「(生徒が表現した問いは)『現代的な諸課題』に触れる問いはほとんどない。…本実践で生徒が切実に考えたいと思う問いを表現できたとは言い難い。生徒にとって『真正な学び』をどのように実現するか、今後の課題としたい」と述べた問題意識と通ずる。その改善策は21年度実践で「観点」を用いて現代的諸課題をブレストする導入を取り入れたことで若干の改善ができたうえ、「質問づくり」(ダン・ロスステインほか)を基にした私の実践は資料に縛られがちという課題もあるものの比較的自由に「問い」を表現できる余地を残しているため生徒一人一人にとってのレリバンスを担保しやすく、またそれを教師が見取ることで生徒と教師とのコミュニケーションの場となっていると言えなくもない。さらに良いものができるよう、今後も実践的に研究していきたい。

*1:ちなみにここで扱われている「自由」に関する資料から問いを表現する授業は、20年度に私が宮本先生の依頼で実践した授業を、授業者を変えてさらにブラッシュアップしたものである。